文芸復興

日本の文芸復興 (Renaissance)
この世で滅びないものはない、動植物は言うに及ばず、地球も太陽も、宇宙も時間すらも。
しかし嘆くことは一つもない、限りある中で自分が美と感じる生き方をすればいいだけだ。
そうすれば(美しいもの)の存在は確かに実在した永遠の存在となるのだから。
日本は現在世界一の長寿国であると誇り高くニュースにしているが、何がその誇り心をくすぐるのか。医療の優秀性?それとも生活環境?・・・馬鹿々々しい。
今は物理的な命を大切にしすぎだ。
(人は何のために生きるのか)を1度でも問うことがあるのなら、命よりも大切なものがあることを知らねばならない。
日本人が連綿として築いてきた歴史と文化には、定義され得ぬ広遠な美がある。
一時の奈落からその都度、立ち上がる日本、偉大を誇らぬ誇り高き民族の日本人、
もののあはれを知り、それゆえに(和)を貴しとした日本人・・・その人間性は間違いなく生き方としての美を伴っている。
日本の文化の源は縄文期から培われ、飛鳥の世に成文化された(和)の心にあり、
そこからすべてが出発した。

日本以外の全ての国は(利)を行動の根本基準とするが、日本は(美)を以ってあらゆる行動の旗紋としてきた。
それは2,650年の歴史どころか17、000年以上も前から風雨に打たれ、時間をかけ育ててきたものだ。
しかし事もあろうか約70年前、ある理不尽な計画のために殆ど全ての日本文化が否定されてしまった、原因は(W G I P)がそれだ。
日本に言論封鎖を徹底し、(日本=極悪)なる自己否定を日本人に洗脳したのである。
米による全日本人のキリスト教化は避け得たものの、いまだに押し付けられたドラッグ患者のような、自虐のマインドコントロールから離れられぬ日本人がやたらと多い。
ヨーロッパのルネサンスはキリスト教に囚われた中世の暗黒史からの人間性解放として起こった。
現在、丁度同じく日本も戦後のWGIPからの呪縛からの再生を果たさなければならない。
(嗚呼!一体何時になったら堂々とした日本が訪れるのか?)と自他に向かい思ってしまう位である。
日本人が未だに日本人としての美を心の中に持ち得ているのは理不尽に対して跪くのでなく、自らの誇りをかけて戦ったからだ。
世界の4大文明(B,C3000~B,C1600)と云われるエジプト、メソポタミア、黄河、インダスは皆現在、悲しいことに砂漠化している。
ある人が(どうしてこんな厳しい砂漠地帯に大文明が築かれたのですか?)と現地人に聞くと(いや、昔は鬱蒼とした森林地帯だったのですよ)と言われ、逆に自分の無知を恥じたと言う。
つまり、彼らは利用できる間は100%享受して、役にたたずと見ればポイ捨て、次に移る。
そしてどんどん砂漠化、砂に埋まった都市が突然発掘されてニュースになったりする。
アフガニスタンの砂漠の広大な場所を緑がいっぱい、水いっぱいに変えて見せた中村さんという医者がいる。しかも自分で費用まで工面して。
アフガニスタンの奇跡とかで有名になったそうだ。
現地人は(ここが緑の世界になるなんて信じられない!)と感激、元の砂漠に戻らぬよう中村医師に居続けて欲しいという。
何のことはない自分たちには緑を守る文化はないと言っているのだ。
ポンペイ、トロイ、バビロン、ホータン、レピュティス・マグナ、ティムガッド等々数えきれない程、かって栄光の大都市は砂に埋もれている。
しかし同じく、いやもっと古い日本文明(縄文期B,C17000~B,C300)は今も鮮やかな緑に輝いているのは,我々現代の日本人が日々感じているところだ。
伐採したところは必ず植樹する、日本人にとってそれはいにしえからの教えであり
当然の行為だった。
海に囲まれ、緯度位置による気象が類まれなる海流を育て、日本の湿気を増大しているらしいが、列島を通じて屋久島は無論のこと、日本の緑が作り出す神々しい幻想風景が凄いのも、生の自然が生きづいているからだ。
ともあれ、全てとの共生、これが日本のあるがままの姿だ。
人工を加えても龍安寺の庭のように、西欧の息詰まる感じの人工(これはこれ)ではない日本を物語っている静逸な、あるがままの自然を私たちは感じるだろう。

こうして日本人の特性を思うとき、やはりとてつもない刻々の時の流れと重なりを思う。
そこで培われた、多様な営みの中に、自然において、人の世において、萬世一系のつながりを感じるのは全ての人に通じることなのだ。
それが日本人の独特な自然観、宗教観、人生観を形成しているのだろう。
多分古代の人間の素朴な感性を持ち続けているのは、今に至って日本人だけかもしれない。多くの民族は長い歴史の中で、列強に支配され淘汰され、まったく変化してしまった。
70年前、日本も文化不毛の地へ追いやられようとした。
が神の住む国だった為か、いや1万年を超える日本の伝統が持つ不屈の強さの為、というべきだろう、太古よりの日本の姿が辛うじて残されたのは幸いだった。
しかしそのような半属国化された環境の中で細々と、心ある日本人は本来の生きるべき姿に心を割いてきた。
汚れた手は驚き後退りし、一切の虚飾を排する意思を持つ、本当の美しい国があると云うことだけのために。
日本の美、それは自然と人間、自己と他が一体化したもの、日本人ならではの心映えに満ちる抽象美だ。
(行間を読む)という言葉があるが、万葉集に代表されるように、饒舌を発せず、いい訳に堕せず、まさにことだまが織りなす抽象美がそうさせるのだ。
欧米の影響で神社仏閣が破壊され、樹齢千年を超える神木が多く失われた時代やまた戦後の日本の文化否定に翻弄された時代などもあったが、何とか克服し今も克服しようとしている。
さて、老若男女悉く、異文化に憧れ、一時的にせよ感化されて欧米ナイズされるのは当然のことだろう。
しかし虫の声すら愛でる文化と唯それを雑音としか捉えない文化は全く違う。
日本文化は繊細であり、多様であり、かつ大胆で底がないほど深い。
かけ替えのない日本文化の美しい花々が、カナムグラのような草に一面覆い尽されぬよう、
継承し発展させねばならない。

ところで佳いものは良い、それは時代と国柄を超えて在る
例えば、芭蕉の辞世ともいえる壮大な句がある。
(旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡る)・・・若いころ、この句が私に想わせたものはゴッホのこれも辞世的な(カラスのいる麦畑)の絵だった。
不気味な濃藍色の空にカラスが一斉に飛び去ろうとし、たわわに実った黄金の麦の穂が、まるで台風の嵐に波打ち慄いているように見えた。
そしてその合間を稲妻の形をした畔が、丁度ゴッホの一途の人生そのままを、呻くように走っているのだった。
そしてまたこの絵が日本人なら誰でもが知っているベートーベンのシンフォニー第9の終楽章の、出だしから合唱に入るまでの導入部に存在した。
否定と肯定の想念が入り交じり戦い合う凄まじい旋律が、人生に苦悩する人々の葛藤を連想させた。
このことからも当然のことだが、異文化の人間同士であるなら尚のこと、強い感動を分かち合えるはずだし、それが互いの存在を認め、高め合うことに繋がる事を想わせた。
彼ら崇高な意思を持った人たちが、自らの人生に蒔いた美に、不安定な若い頃どんなに励まされたことか。
自国の文化を守り発展させることは他文化を排斥することではなく理解することに繋がる。
より影響し合い、より己が領分において輝くことだ。
戦後我々は余りに長く、悲しくも無残な廃墟に追いやられ、日本を捨てるよう唆されたように、道に迷ってしまった。
だから、志あるものは唱えよと言いたい、日本の文藝復興を!
文芸復興に歩みだす、今が日本の(ルネサンス)の時なのだ

縄文の世、大和神話の代から近現代までの日本人像を描きたく、N・Yでの個展の為のテーマを掘り下げている内に、メモが溜まり何となく纏めた。
参考文献をそのまま載せているだけだけれど一度目を通して戴けるなら幸いです。
敷島の大和心を 人とはば 朝日に匂ふ 山さくら花 (本居宣長)
さて、本日早朝 白く輝く空に見た眩しさは、あの旭日の真っ赤な太陽であった。